まえがき

般若心境の教えとは何でしょうか。まず、「人の道」としては、生き物の命をと殺るな。
他人のものを盗むな。よこしま邪な愛欲を犯すな。嘘をつ吐くな。真実を隠すな。悪口を云うな。
二枚舌を遣うな。欲を掻くな。怒りを持つな。正しい道を観るである。

ところが私達はどうでしょうか。生き物の命をと殺るなといっても殺ってしまう。他人のものを盗むなといっても盗んでしまう。よこしま邪な愛欲を犯すなといっても犯してしまう。嘘をつ吐くなといっても吐いてしまう。真実をかく隠すなといっても隠してしまう。悪口をい云うなといっても云ってしまう。二枚舌をつか遣うなといっても遣ってしまう。欲をか掻くなといっても掻いてしまう。いか怒りをも持つなといっても持ってしまう。正しい道をみ観ろといっても観えてはこない。
このようなお愚かな心を正し、真実の世界に向かって一歩一歩あるいていく。その教えが、仏教であり、この般若心経でもあるのです。

ところで「ものから心の時代」といわれて久しい。しかし、人々は、相変わらずむさぼ貪りといか怒りとおろ愚かで生きています。
自分の欲しいものを追い求め、自分の思い通りにならなければ怒り、愚かは、そんな自分すら考えるよし由もないのです。
良識ある人々が、こんな世の中を観て、なげ嘆き悲しみ怒ったところで、自分一人ではどうすることもできないいらだ苛立ち。正が滅で、悪が栄える。こんなことがあっていいのだろうか。
禅語に「めい迷こ己し逐ぶつ物」という言葉があります。これは“自分に迷って物を逐う”という意味です。
わたしたちは、権力や地位や、金銭や物質や快楽を追い求めて、自分自身を見失ってはいないだろうか。

むかし、インドに「コーサラ」という国がありました。そこの王様が、ある日のこと、妃のま末り利夫人にたずねました。
「末利よ、そなたには自分より愛しいと思われるものがあるかどうか」と。
妃は、しばらく考えた後に、このように答えました。
「私には自分より愛しいものは考えられません。王様には、自分より愛しいものがおありでしょうか」と。
こう云われては、王様も「自分より愛しいものはない」と答えるしかなかった。
二人の思いは同じであった。ところが、何となくすっきりしない。不安になった二人は祇園精舎に赴いて、おシャカさんに教えをこ請うたのです。
二人の話を聞いたおシャカさんは、深くうなづき、このように話された。
「人の思いは、いずこにも行くことができる。しかし、いずこにおもむ赴こうとも、人は己より愛しいものをみいだすことはできない。それと同じように、他の人々も、自分はこの上なく愛しい。されば、己の愛しいことを知るものは、他のものにも悲しみの心をかけなければならない」と申されたのです。

このように、政治家も、官僚も、国民も自己中心的な考えを捨て、御互いに「悲しみの心」をもって生きていけば、どんなに住みよい社会ができることでしょうか。